自分らしく生きる
2016-08-10

#11 赤江珠緒 / アナウンサー

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「やるからには楽しんでやらなきゃと思っているうちに、本気で楽しくなるんです」

報道からバラエティまで幅広い分野で活躍中の赤江珠緒さん。テレビ朝日の朝の顔として12年間ニュース番組の司会を務め、その明るく爽やかな表情と真摯にニュースに向かう姿勢は、年齢性別を超えて多くの人を惹きつけました。現在も多岐に渡るジャンルで活躍中。メインパーソナリティを務めるラジオ番組『たまむすび』では、飾り気のない三枚目の顔も惜しみなく披露して、さらなる人気を得ています。えくぼが愛らしく、“たまちゃん”の名で親しまれる彼女も今や41歳。アナウンサーとしてますます成熟していく年齢となり、これからの活躍が期待されます。「ものすごくやんちゃだった」という幼少期を経て、アナウンサーを目指したきっかけ、関西から単身、東京で番組を担当したときのことなど、赤江さんのこれまでを語っていただきました。

――兵庫県のご出身ですよね。3人兄弟の真ん中でいらして。小さいときはどんなお子さんでしたか?

関西弁で言うと“いらんことしい”な子。つまり、やってはいけないことばかりやる子供で、兄弟の中でも私だけ怒られてばっかりでした。屋根に干してある布団に寝てみようと思いたって、寝てたらそのまま布団ごと落ちたり、蝉をつかまえてパンツに入れたり。学校の理科実験室でお化け屋敷ごっこをやっていたら、雰囲気を出すために置いていたアルコールランプが転がってボヤ騒ぎになったり。そんなことばかりしていたせいか、子供時代のことは今でも鮮明に覚えているんです。危ないこともしょっちゅうしていたので、今思うと、よく生きてたなと思います(笑)。

――相当なやんちゃぶりですね。どんなご家庭だったのですか?

父が君臨している家でした。「お父さんに言うよ!」と言われると焦って「言わないで!」と懇願したり。でも、母もしょっちゅう怒っていて、自分だけでなく近所の子供も怒ったりしていたので、「赤江の母ちゃん怖いな〜」とか言われてました。あまりによく怒られるので、小学校1、2年生くらいのときに、母がこぐ自転車の後ろで「お母さん私のこと嫌いなん?」て、泣きながら聞いたんですよね。そうしたら母が「あなたが大人になったときに困るから、あなたが好きだから怒ってるのよ」と滔々と言われて、子供心にちょっと納得しました。でも結局懲りずにやんちゃをするので、それからもずっと怒られてましたけど(笑)。

四六時中怒られてたからあんまり自覚がないんですよね。怒られているうちに自分の空想の世界に入っちゃって、また怒られるとか(笑)。そういう子供時代を経たからか、段々怒られることが苦じゃなくなってきて、大きくなってから怒られてもへこたれない耐性ができました。むしろ、怒ってくれる人の方が愛情あるなって思います。

――反対に、ほめられたことでよく覚えていることは?

本を読むのがすごく好きで、本を読むときだけはじっとしていたので、私をおとなしくさせるために、親からはたくさん本を与えられました。物語を中心に、とにかく本をよく読んでいて、学校の授業で朗読したら先生にほめられたんです。違う学年の先生からも道徳の教材をつくりたいから教科書を読んでほしいと頼まれて、視聴覚室で録音したときに、そこでもすごくほめられたんです。先生が「ありがとう!」ってすごく喜んでくれて、お菓子をたくさんもらいました。それで「これは人の役に立つんだ!」とピーンときたんです。それが、喋ると人が喜んでくれると思った原体験ですね。その頃、周りの人からも「アナウンサーになればいい」と言われたりして、小学校の卒業文集にはアナウンサーか声優になりたいと書いていました。

――小学校、中学校は転校が多かったそうですが、それは赤江さんの性格や考え方に影響したところはありますか?

父の仕事の都合で、4年に1回くらい転校してました。幼いなりに、それまでの環境から離れなければならないことで、喪失感みたいなものはありました。小さい時はそれでも新しい環境にすぐ馴染めるからいいんですけど、中学生くらいになると、なかなかそうもいかなくて。中学2年生のときは転校先になかなか馴染めなくて人間不信になったりもして、色々悩んだりしたんです。振り返ると、それをきっかけに急に大人になったような気がします。

それから、小学生のときはアナウンサーになりたかったんですけど、中学では、旅館の女将になりたいと思ったり、植木職人を目指したり(笑)。大学に入るときはカウンセラーになりたくて、心理学を専攻しました。でも、3年生になって就職のことを真剣に考えたときに、やはり一番最初になりたいと思った職業を目指してみようと。でも、どうやったらアナウンサーになれるのかわからなくて、まず、サンテレビというローカルのテレビ局のバイトを始めました。そこで、「アナウンサーになりたいならこういう学校があるよ」と教えてもらったアナウンス学校に行くようになったんですが、そこがすごく厳しかったんです。

ひとりの先生が少人数のクラスを教えるという寺子屋スタイル。夕方6時から授業なんですが、5時には来て発声練習してなきゃいけないとか、授業中メモを取る時は下を向いてはいけないとか、欠席するときは前もって縦書きの書面を提出しなきゃいけないとか。とにかく細かいしきたりがたくさんあるんですけど、最初は全然わからなくて、そこでもまた怒られっぱなし(笑)。でもすごくカリスマ性のある先生で、大学より熱心に通い続けました。あのときは「なんのためだろう?」と思っていたことも、今になってノートを見返すと、ああ、先生の仰ってたことはコレだったんだな、というのはあります。

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――そこまで熱心にアナウンサーの勉強をしたら、就職もアナウンサー一本でしたか?

そうですね。テレビ局しか試験を受けませんでした。そのときは漠然とニュースを読むことに憧れていて、報道をやりたい、インタビューが上手いアナウンサーになりたいと思ってました。

――地元の朝日放送(ABC)に入社されて、念願のアナウンサーになられてどうでしたか?

入社してすぐに希望を聞かれたので、「報道をやりたいです!」と答えたんですが、「おまえに報道のオファーなんかない。丈夫そうだからスポーツをやれ」と言われて。新人なので当たり前なんですけど、希望を聞かれたから言っただけなのにと、少し傷つきました(笑)。それをきっかけに会社に言われた仕事は全部やろうと思って、とにかくなんでもやりましたね。スポーツにはじまって、お笑い番組や、お店取材、かぶり物もやりました。どの現場も本当に楽しくて、がむしゃらにやってました。どの経験も勉強になったし、今振り返っても、無駄なものは一切ありませんでした。

――報道番組を担当するようになったきっかけは?

入社から8年経って、社内の報道から声がかかり、夕方の番組を担当することになりました。そのときは、他のジャンルの仕事が楽しくて、報道志望だったこともすっかり忘れていたくらいで(笑)。「報道へ行け」って言われて、むしろガックリみたいな。

で、初めて報道番組を担当してから半年後に、テレビ朝日から『スーパーモーニング』の司会の話があったんです。これは、その少し前に、『北朝鮮の闇』という深夜の報道特番の司会を鳥越俊太郎さんとやらせていただいたんですが、それを観た『スーパーモーニング』のプロデューサーが私のことを覚えていたことがきっかけでした。

――いきなり抜擢されて、初めての東京、初めての全国放送の司会を経験されたわけですね。大変でしたか?

そうですね、仕事の内容も環境もガラリと変わりましたから。ある日、当直明けで会社にいたら、いきなり上司に呼び出されて「東京へ行かないか?」と。アナウンサーをクビになるんだと思いました(笑)。最初は1年間のレンタル移籍ということだったので、1年東京に住んでみるのもいいなと思って。でも実際に東京に来てからは、戸惑うことばかりでした。ABCとテレビ朝日は系列局とはいえ社風も全く違うし、会議のやり方もまるで違う。ロケに行った帰りに渋谷で降ろされて、どうやったら電車に乗れるかもわからなくて途方に暮れたり。番組も政治家の方しか来ないし。

で、まず、全国放送だからと気負わずに、自分の身近な人に少しずつ自分のことを知ってもらおうと。その延長線上にテレビの向こうの方々がいるんじゃないかと思ったんです。で、スタッフやヘアメイクさんや、そういう毎日会う人たちとちょっとずつ距離を縮めようとしてみました。だから、飲み会は必ず参加して、最後までとことんつきあって、「おまえ、まだ帰らないのか!」と言われたり(笑)。そうやっていくうちに、1年くらいで東京の生活には慣れました。けれども仕事はひとつのハードルを越えたらまた次と、課題がなくなることはなくて、「ラクにこなせるようになったな」と思ったことは、これまで一度もないですね。

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――それから3年あまり東京で番組を担当されて、一旦大阪に戻られて。フリーになったきっかけはなんだったんですか?

最初は1年のはずが、結局3年半東京にいて、段々古巣が恋しくなってきたのもあってABCに戻りました。でも、それからすぐに『サンデープロジェクト』に呼んでもらい、毎週東京通いをすることになって、それは結構、体力的にもきつかったですね。それで当時、結婚も考えていて、そうすると旦那はテレビ朝日の社員で東京勤務だから引っ越さなきゃいけなくて、思い切ってABCを辞めることにしたんです。有給休暇も半年あったし、まずはそれを使ってゆっくりしようかな、と考えてました。

そうしたらそのタイミングで、テレビ朝日から再度『スーパーモーニング』の司会のお話をいただいたんです。でもABCに退職願を出してしまった後だったので無理ですと言ったら、東京に来てくれればそれでいいから、と言われて、結局フリーという形でお世話になることになりました。なので、3月31日までABCの社員として出て、4月1日からはフリーで出演という形になりました。

――それが2007年。その翌年にご結婚されたんですよね。

そうです。旦那は、私が元気で好きなことをやって活き活きしてればそれでいいっていう人で、嫁らしいこととか全然期待されないんですよ。どっちが嫁なのかわからないっていうくらい(笑)。

――理解ある旦那さんですね。フリーになることに戸惑いはなかったですか?赤江さんは大手事務所ではなく、個人で事務所をされていて、それも珍しいですよね。

フリーになった当時は本当に時間がなかったので、東京の事務所を調べたりとかできなくて、そもそも芸能事務所の事情も全然もわからなかったんです。テレビ朝日の人に相談したら、「とりあえず窓口があればいい、後で落ち着いて決めたらいい」と言われて。で、フリーになってみたら、今まで通りに番組をやる毎日で、社員だったときと何も変わらない。それで個人事務所のまま続けちゃったんです。それに大きな事務所入ると、自分が辞めたい時に辞められないんじゃないかと思ったりもしました。

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――『スーパーモーニング』の司会、そして後継番組の『モーニングバード』を含めて12年間、朝の番組を担当されて、そのときはどんなことを心がけていましたか?

帯番組を担当しているので海外旅行とかは行けないんですけど、合間をみつけて国内をちょこちょこ旅していたんです。そうすると全国放送なので、ありがたいことに色んなところで自分の番組を見ていてくださる方がいる。地方の山間部とかで、番組が流れている光景を見ると、すごく新鮮なんです。毎日六本木のスタジオで「おはようございます」と言っているのと、テレビの向こうにいる方々の温度感が違うことを肌で感じたり。うっかりするとその違いを忘れてしまうんですが、できる限りその光景を忘れないようにと思ってました。

――12年の中で、記憶に残る出来事はなんでしたか?

やはり東日本大震災はあまりにも大きな出来事でした。地震が起きた時、私は美容院にいて、そのままテレビ局に行き、その日から特番の連続。送られてくる映像、読むべき原稿すべてが、今まで目にしたことないものばかりでした。「○○町壊滅」と原稿に書いてあるんですが、壊滅って何?みたいな。その後、原発の問題が起きたり、世の中がどんどん不穏な空気になっていく気がして、自分もどんどんネガティブになっていきました。

その後、現地に取材に行くことになったんですが、テレビで流れたあの映像が目の前に広がっているんです。想像していたよりさらにひどいところもありました。でもそこで出会ったあるご夫妻が、私たちにコーヒーを勧めてくれるんです。お水もなかなか手に入らない状態なので、お断りしたんですが、「いいから」ってもてなそうとしてくださって。現地の方がそうやって地に足をつけて暮らそうとしている姿を見て、こちらの気持ちも落ち着きました。あのままスタジオで映像を見てニュースを読んでいるだけだったら、自分自身を見失っていたかもしれません。

――やはり実際に現場を見ることは大切なことなんでしょうか?

私たちの仕事って因果な商売だなと思うんです。基本的に事件やニュースって、人様の不幸とか、そこに辛い思い悲しい思いをしている人がいることを扱うことが多くて、そこで自分がどういうこと考えて、どう話すかを求められます。誰かが撮ってきた映像を見て喋ることを常に繰り返していると、段々麻痺してくるんですよね。どんな映像を見ても、前よりも衝撃を受けないようになってしまうとか。ちゃんと想像力が働く状態でないと、きちんと伝えられないんです。だから、なるべくニュートラルでいようと心がけていましたし、なるべく現場にも足を運ぶ機会を作るようにしていました。

――その感覚が、赤江さん独特の親しみやすさを生み出していたんですね。2012年から始められたラジオ番組『たまむすび』では、テレビとはまた違う一面を出して、新たなファンをつかんでいらっしゃいますね。

朝の番組でメインの司会をしていたのが32~33歳でした。その年で政治家の方と議論したり、コメントをしていたわけなんですが、きっと生意気に映ったと思うんです。こんな若い女性が何を言ってるんだと。実際、女性の意見が聞いてもらえないと思ったこともありましたし、発言に対してクレームが来ることもありました。そこで、自分の言葉を聞いてもらうにはどうすればいいかなと考えたとき、私という人間を知ってもらうことが必要なんじゃないかと思ったんです。親しみとか、信頼感を持ってもらうことで、自分の言葉にも耳を傾けてもらえるようになるんじゃないかと。ラジオはそういう気持ちもあって始めました。今、ラジオを聞いてくださっている方は、すごく近い距離感で接してくださっていて、テレビとは違う自分の一面を知ってもらえるいい機会になったと思います。

これまで様々な仕事をやらせていただいてきた中で、仕事がきっかけで自分の興味が開いていくということが何度もありました。ラジオでは作家やミュージシャンの方など、いろいろな方と話す機会があるので、たくさんのことを教えてもらえます。本当にこの仕事を辞めずに続けてきてよかったなと、今はつくづく思っています。

――アナウンサーを目指していたとき、インタビューが上手くなりたいと思っていたそうですが、それは達成できましたか?

今になって思うと、あえてインタビューを特別視することはなかったんですよね。ラジオでゲストの方と話すのも、一般の方にお話を聞くのも、言ってみれば全部インタビュー。以前はいろんなことを聞かなきゃと思うあまり、総バナ的な話になってしまったりということがよくありました。でも、普通の会話そのものがインタビューなんだと思うようになってからは、肩の力も抜けたし、会話自体を楽しむことができるようになりました。

――たしかに、ラジオでの共演者やゲストとのやりとりはとても楽しそうで、聞いてる方も楽しくなります。

やるからには楽しんでやらなきゃと思ってるうちに、本気で楽しくなるというのが私の人生なんですよね。転校が多かった子供時代に、世界が変わっても、結局自分で自分の周りは耕さないと生きていけないって思ったのと同じで、どの現場に行っても、自分の人生は自分で納得するように耕すしかないなと。

これまでは司会として番組のホスト側でいることが多かったんですが、最近はゲストとしてお呼ばれすることも多くなって、そういう時に、どれくらい自分を出していいのかまだわからない面もあるんです。いろんなことがまだまだ手探りですけど、いつも行き当たりばったりだし(笑)、その中で楽しんでいければいいなと思っています。

5_T3A6017B終始笑顔がとてもステキだった赤江さん。その素顔はテレビやラジオで見せるのと同じ親しみやすさに溢れていました。取材・文=小沢美樹 写真=松井康一郎 スタイリスト=若狭恵美 ◎トップス¥9,000、パンツ¥22,000 (共にイプセ☎03-6427-2802)
赤江珠緒 Tamao Akae

1975年兵庫県生まれ。神戸女学院大学卒業後、1997年朝日放送に入社。1998年全国高校野球選手権大会中継の実況を務める。2003年よりテレビ朝日『スーパーモーニング』の司会に就任。2006年に朝日放送に戻った後、2007年フリーに。同年、『スーパーモーニング』の司会に復帰。2008年結婚。2011年から2015年までテレビ朝日『モーニングバード』の司会を務める。2012年よりTBSラジオ『たまむすび』のメインパーソナリティ。