自分らしく生きる
2016-07-08

#10 藤野可織 / 小説家

5.IMG_9367

「丸くならないで、成熟もせず、いつまでも無茶なことを書いていきたいなと思います」

2013年に『爪と目』で芥川賞を受賞した藤野可織さん。美人作家登場!と、当時はそのキュートな容貌も話題になりましたが、藤野さんが小説で描く世界は奇想天外で、ともするとホラー的ともいえる奇妙な感覚を持つものも多く、その不思議なギャップがまた魅力ともいえます。学生時代は美学・芸術学を専攻し、アートにも造詣が深い藤野さんが、どのようにして小説家への道を歩むことになったのか?「引きこもりなので、あまり外に出ないんです」という人気作家を訪ねて、京都に赴きました。

──小さい頃はどんな子どもでしたか?

一人っ子で、ボーっとしてて、グズでとろくて。今も変わってないんですけど、いつもみんなにおいていかれている子どもでした。とにかく運動神経が鈍くて、それがアイデンティティを形成した感じがします。外で遊ぶより、絵本を読むのが好きで、幼稚園に上がる前から、母によく絵本を読んでもらっていました。夜すぐに寝たくない子だったので、母が「一冊読んでから寝ようね」って言っても、揚げ足取りみたいな質問を何度も繰り返して、一冊の絵本を読み終えるのに一時間かかるとか、そういう苦行を母に課していました(笑)。すごく粘り強く質問を繰り返して、母のほうが居眠りしてしまうみたいな。そういうことをしているうちに自然と文字が読めるようになっていて、幼稚園では教室にあった絵本を勝手に読んだりしていました。

――印象に残っている物語はありますか?

イヌが主人公の『どろんこハリー』とか大好きでした。手放してしまって後悔しているのが、『シュゼットとニコラ』というシリーズもの。兄妹が四季折々の遊びをする、すごくきれいな絵本でしたね。フェリクス・ホフマンの『眠り姫』は、子供にはちょっと怖い絵なんですが、怖がりながらも見ずには入られませんでした。怖いといえば、ぞうのババールで、たしかババールのお父さんが毒を飲んで死んでしまうんだったと思うんですが、そのときの緑色になった体でばたーんと倒れている絵がめちゃくちゃ怖かったですね。あとは『スイミー』も好きでしたし、武田和子さんの『魔女と笛吹き』がとても大好きで、それは今も手放さずに持っています。

――小学校に入ってからは?

小学生の時は個人の先生について、本格的にピアノを習っていました。でも、その先生が要求するレベルに全然達することができなくて、学校が終わってからは、ほぼ毎日まっすぐ帰ってひたすら夕飯までピアノをずっと弾いてました。だから、放課後に友達と遊んだという記憶が数えるほどしかないんです。両親が音楽の専門家というわけでもないし、どうしてそんなに本気でピアノをやっていたのか、いまだに謎なんですけど。だから小学校というと、ピアノを弾いてたことが一番に思い浮かびますね。

――ピアノは何歳まで続けたんですか?

小学校でいじめられたので、その地元の狭い区域の中の中学に進学したら、きっとまたひどい目にあうに違いないと両親が心配して、小6の時に、私立の同志社中学を受けなさいって言われたんです。それで塾に通うようになると両立できなくなって、いったんお休みしました。その後、無事に同志社中学に受かって、再開しようって話になったんですが、なんかもう本能的にイヤだと思って泣いて拒否して、それでやめました。だから今はもう、まったく弾けないです。

そもそもは、母から「バレエとピアノどっちがいい?」って聞かれて、ピアノって答えたらしいんですけど、思い返してみると、ほとんど義務みたいな感じで、音楽の楽しみを知らないままやってて、すごくもったいなかったなと。高校生くらいになってロックとか聴き始めて、音楽っていいものだなって思うようになって、今では音楽は大好きですけど、もしあの時にそれを知ることができていたら、もっとピアノが上手になってたかもしれないですね。

――中学時代ではいじめもなく、新しい世界を楽しんだのでしょうか?

やっぱり、そこはそこで厳しい世界で。共学で私服だったんですが、見た目にものすごく差が出るんです。もともと持って生まれたものや体形もあるし、あとそういうことを気にするかしないか、雑誌とかを読んでセンスを磨いているかどうかで、ずいぶん変わりますよね。私はまったく自分の容姿にかまってなくて、服も当時は興味がなくて、そうなると見る影もなくダサかったみたいで。だからヒエラルキーの一番下で、結構きびしい中学時代を過ごしました。最下層カーストで誰にも見向きもされず、細々と地味にマンガや本を読んだりして生きていました。

――高校に進んでからはどうですか?

高校に入ってからはずいぶんましになりましたが、さらに大学になると服装もいろんな人がいるし、誰かとグループにならなきゃいけないなんてこともなくて、そんなこと自分も他人も気にしなくなって、だんだん楽しくなっていきました。大学生のときよりも院生のときのほうが楽しかったし、院生のときよりも今のほうが楽しいです。だから今思い返すと、幼ければ幼いほど、つらい日々だったと思います。

2.IMG_9488

――そのつらい時期に、救いになったような物語とかはありましたか?

よくわからないんですが、暴力や恐怖を描いたものが私を救ってきたんだということだけはたしかです。映画は、アクション映画やホラー映画にしか興味を持てなかったし、小学校の学級文庫ではポーだけがやけに目についたし、漫画もそうです。

小学校の時は、家で漫画を買ってもらえなかったので、年上の従姉の家に行ったときにおもに読んでいたんですが、その従姉の部屋には少女漫画のホラーがたくさんあったんですよね。たぶん松本洋子とか茶木ひろみとか高階良子とか、山岸凉子とか。それを勝手に読みまくってました。それで小説家になってから、「私がこんな小説を書くようになってしまったのは、ユミちゃんがホラー漫画をいっぱいコレクションしてたから、そのせいやわ」って言ったら、「それは違う。私はホラー漫画も好きだったけど、あらゆる種類の少女漫画を持っていて、可織ちゃんが勝手にそれを選択しただけ」って言われてびっくりしました(笑)。

中学生になると、図書館にあった三島由紀夫や太宰治や江戸川乱歩や、あとは筒井康隆などをぼんやり読みつつ、漫画のほうは「寄生獣」が素晴らしいなーなんて思っていました。

――無意識のうちにそういう世界に惹かれて、今につながる感受性を育んでいたのかもしれませんね。ご両親の反応はどうだったんでしょう?

両親は厳しい面はすごく厳しいんですが、大らかな面もあって、私が小学校の時に残酷な映画を見てても何にも言わなかったし、中学の時も、例えばダリオ·アルジェントの映画なんかを借りて来ても、母は「うわぁ、気色悪う」とか言いながら一緒に見てたし、猟奇殺人の実録物や小説をせっせと買ってきて読んでいてもやっぱり何も言いませんでした。読むものや見るものについては、私が興味を持ったものを制限されたことはまったくなかったですね。友達と話していて、そういう不吉なものや残酷なものを家に持ち込むと親がいい顔しないっていうのを聞いて、びっくりしたこともあります。

――母親も同じようなものが好きだったと。

どうやらそうですね。母親もそういうのが好きというはっきりした自覚があるわけではなさそうなんですが、どう見てもきらいじゃないみたいですね。

――じゃあホラー系のものが好きなのは先天的なものなのかもしれないですね(笑)。

そうかもしれません。

――その後大学で美学·芸術学専攻を選んだ理由は?

高校生の時、図書室に世界美術大全集があって、それをお昼休みに見にいくのが毎日の楽しみになっていました。もともと中学生の時から美術館が大好きでよく行っていて、美術館の学芸員になりたいと思うようになったんです。それで同志社大学で、その職業にもっとも近い学部ということで、そこに進学しました。同時になんとなくカメラクラブに入ったんですが、自分でも意外なくらい写真を撮るのが好きになりました。

そのあと、一応学芸員をこころざして大学院にも2年行きました。その結果、自分の限界がよくよくわかって、とても学芸員にはなれない、研究室に残って研究者になるのも無理だと思って、さっさと修了して家の近所の編集プロダクションに就職したんです。スタジオ部門の募集でした。写真を専門的にやってたわけじゃなかったけど、一度そういうのをやってみたくて。でも、半年で辞めました(笑)。

――スタジオのアシスタントの仕事は結構、重労働ですよね。

その部署にいたのは全員女性で、親しみやすい職場ではありましたが、とにかくもともと要領も悪いしトロいし、仕事は日付を回っても終わらないし、本当につらくて、その半年間一冊も本が読めなくて、それでもうダメだなあと思って、皆さんに迷惑をかけると思いつつ10月に転職しました。その後は、岩倉にある世界思想社教学社という、学術書や赤本を作っている出版社で、事務みたいなアルバイトを4年半くらいしました。その2年目くらいに文學界新人賞をいただいたんです。

3.IMG_8961

――小説を本格的に書き始めたのはいつからでしょうか?

大学院の修士論文を書いている時です。その時に予感があったんです。私は学芸員にもなれない、研究者にもなれない、昔目指していたピアニストにもなれない。これから写真関係の仕事もするけど、きっと写真家にもなれないだろうって。結局、自分は何にもやりたいことをできていない。でもその時に、幼稚園の時から、将来は自然とお話をつくる人になるって、ずっとそう思ってたのに、まだ何も書いてないわって思い出したんです。

――お話をつくる人になると、ずっと思い続けていたんですか?

そうですね、思い込みが強くて、なりたいっていうか、なるもんだって思ってた。たとえば小さいころって、大人になったら自分の親みたいに自然に結婚して家庭を築くものだって、みんななんとなく思ってたりするじゃないですか。実際そうなるかは別問題として。そういうふうな感じで、大きくなったら、お話をつくる人になるんだろうなあって思ってたんです。それで修士論文の合間に小説を書き始めて、ためしに文芸誌の新人賞に応募してみました。そうしたらちょうど転職したころ、その賞の発表があって、私の出したものが第二次選考まで残ってたってことがわかって、それで世界思想社に入ってからは、ちゃんと目的意識を持って毎日書くようになりました。

会社は9時5時で行って、フルタイムで働きつつ、家に帰ったら小説を書いて、なるべく寝るようにはしつつ、翌朝は肌も髪もぼろぼろでふらふらと会社に行く、そういう生活をしていました。

――それで2年後に文學界新人賞を受賞。

はい。でも、それで食べて行けるわけではないし、仕事を辞めるわけにもいかず、さらに2年くらいは勤め続けました。ただ2年後に出版社を辞めるのは、小説で食べていけるという手ごたえがあったからじゃなくて、体力的に持たなくなってきたからです(笑)。ちょうどまだ実家にいたので、まあ死ぬこともないかと思って。その後は作家としてやっていこうと決めて、実家で書くことに専念していました。

――新人賞から芥川賞までは7年間あります。やはり芥川賞はとりたいと思っていましたか?

芥川賞をとるのは100枚から150枚の作品が多いと言われていて、そのくらいの長さの小説を依頼していただくことが多かったとは思いますが、私自身にとっては別の世界のことでしたね。私はとにかく原稿離れが悪くって、とりあえず書いて編集者さんに見せてアドバイスを求めるということができないんです。そのせいで、妙に狭い視野で凝り固まって身動きがとれなくなってしまうことばかりで、その先にあることを考える余裕なんかないんです。だから、ひたすら深い穴倉にこもって書いては消しているというような7年間でした。

――その間は壁に突きあたっていたということですか?

そうです。今もずっと壁にあたっていて、その壁をゆっくりゆっくり押し続けている感じです。

――芥川賞受賞作の『爪と目』は、三歳の娘と、その父の愛人だった女性との微妙な関係、危うい距離感を描いていて、ちょっと怖いという人もいますが、藤野さんの作品には、現実には起こらないような話が多いですよね。そういった物語の題材は、どういうところから得るのでしょう?

なんとなくこういう光景が書きたいなーと思いつくところからはじまりますね。印象的で異様でとても美しい、そんな瞬間的な光景があるとして、それをもっとも効果的に、もっとも自然に、もっともインパクトを持って配置するにはどうしたらいいのかという、逆算で考えることが多いですね。

――最初にビジュアルがあるわけですか?

そうですね。私は小説で、これを言いたいとかこれを主張したいということが、あまりないんです。それがいいことか悪いことかはわかりませんが、私が自分がこれは美しいと思ったものを書きたい。それだけなんです。でも、それだけでは話が成立しなかったりもするので、私が見つけてくることができる中でもっともその光景と調和するテーマのようなもの、を足がかりに書いていくことが多いです。

でも、いつかその光景にたどりつくはずだったのに、ぜんぜんちがう光景を書いてしまうこともけっこうあって、それはそれで、この小説にはこれが正しい道筋だったんだと思えたらもう当初の案はあきらめてそのまま進めます。

――頭の中に生まれたイメージをそのまま表現するというのは、やはりアートが好きということも影響しているのでしょうか?

それもあると思いますが、大学院で論文の書き方を勉強したことが、とても大きいと思います。私の担当の教授がものすごく文章に厳しい人で、「作品について論じる時に、文章できっちり説明することができさえすれば、問題にすべき点は明らかになるし、自ずと答えすら見えてくる」というくらい、文章の力を信じている先生で、曖昧だったり感情でフラフラしていたり、論理的じゃないことを書くと、すごく怒られるんです。

美術って、もちろん観賞するときは感情に任せて構わないんですが、作家が制作する時は感情だけじゃなくて、頭でも考えて作っているから、論じる方もそれ以上に論理的じゃないといけない。これが美しいと感じるのは、このような線があるからだとか、とにかく論理的で、わかりやすい日本語で簡潔に書くということを、2年間じっくり学びました。

将来お話をつくる人になると思っていたので、文章にはなんとなく根拠のない自信があったんです。誰にも評価されたことなんかないのに(笑)。だから、あんまり勉強はしなかったけど、文章を書くことだけは先生の基準値に達しようと必死にやったので、ある程度は身についたと思っています。今でも小説を書く時は、私の小説は実際に起こり得ないことを書くことが多くてこの世の論理とは違っているかもしれないけど、個々の小説の中に存在する論理には合致するよう、筋が通るように書いているつもりでいます。

――確かにパラレルワールドのあっちへ行ったりこっちへ行ったりしている感じでありながら、決して話は破綻せず、理路整然としている。藤野さんの頭のなかのビジュアルを、見たままに正確に描写しているということなんですね。

そうですね。見たままをきちんと書くというのは、その先生から教わったことです。でも、賞をとったとき、出来上がった本を持ってご挨拶に行ったらもう本当に喜んでくださったんですが、次に会ったときには「君の本は何が書いてあるのかまったくわからなかった」って言われました(笑)。

4.IMG_8946

――題材は普段の生活にあるものとおっしゃいましたが、基本は日常の断片を切り取ったお話が多いですね。

あまり外に出ないので、そうせざるを得ないというところもあります。行動半径がめちゃくちゃ狭いので。大学も就職もずっと近所で、今もずっと京都に住んでますし。

――海外旅行とかは?

今までの人生で2回だけあって、どちらもパリなんです。最初は大学の3年の時に、美術が好きだからパリかな、と友達と3人で観光に行きました。2回目はおととしに、「芸術新潮」でパリの小さな美術館特集やるから行かないかって言われて、喜んで連れてってもらって。海外へはその2回しか行ったことがありません。

――海外には興味がないんですか?

興味がないってことはないんですけど、自分で飛行機のチケットとったことないし、とにかく事務的なことをするのがすごく苦手で、時間の計算とか配分とかが本当にできなくて。だから旅行は行ってみたい気はするんですけど、面倒臭がりなこともあって、旅行の用意をするって考えただけで、半日寝込む自信があります(笑)。

新幹線のチケットを買えるようになったのも、芥川賞をとって半年経ったくらいからなんです。大学生の時は夜行バスで東京に行ったりしてたんですけどね。賞をとって頻繁に東京と京都を行き来しなくちゃいけなくなると、編集者さんが切符を送ってくれたり、あるいは編集者さんが切符の自動販売機まで一緒に来てくれて「藤野さん、ここ押すんですよ」って教えてくれたりして、それを5回くらいしてもらって、やっと自分で買えるようになりました。

新幹線のチケットって、普段乗り慣れていない者からすると、とても高いんです。京都から東京って1万5000円近くしますよね。よく考えたら1万5000円の服とか家具は買ってるんですが、それにしても買うかどうか熟考もしないで1万5000円の支払いをするなんてことが、日常ではそんなにないので、今からそんな高価なお金を払うんだって思うと、急に体が固まるっていうか(笑)。

――クレジットカードとかも使わないほうですか?

それはめちゃくちゃ使ってます。私、引きこもりなんで、amazonでトイレットペーパーとかティッシュを買うことすらあります。

――ご結婚されていますよね?必要なものはダンナさんに買って来てもらったり?

はい。でも夫も忙しくて夜遅く帰ることが多いので、お店が開いてる時間に間に合わないんですよね。休みの時にまとめて買って来てもらうこともあるんですけど、今すぐこれが欲しいっていうときにすぐに買ってきてもらえるとは限らないので。夫は映像を撮る仕事をしていますが、そういう仕事って大体そうなのかもしれないんですけど、とにかく休みがなくて残業残業でものすごく大変そうです。

――結婚されたのは賞をとる前ですか?

芥川賞をとる1年くらい前ですね。大学時代の同級生で、10年付き合って結婚しました。夫が夜遅くに帰って来ると、私は「今日ネットでこんなこと読んだ」とか、ずーっと話をするんですよ。それを夫が眠気を耐えながら必死で聞いて、もうダメだって寝ちゃって、私は執筆に戻る、みたいな生活です。

――ずっと家にいて小説を書いているのが好きなんですね。

というより寝るのが大好きです。ほっとくと大体寝てます。18時間くらい寝てる時とかあります。寝すぎて疲れて起きたり、お腹が空いて起きたり。あと、スターチャンネルを契約しているので、ひたすら映画を観たり。でもやっぱり時々寂しいので、ついついツイッターを見ちゃうんですけど、私が一番見てる明け方近くは誰もつぶやいてなくて、逆にすごく寂しかったり(笑)。

――これから書いてみたいと思っていることはありますか?

今までは一切取材をしてこなかったんですけど、一回ちゃんと取材をして書いてみるのは面白いかなと思ってます。実際にあった殺人事件を題材にするとか。

――藤野さんの作品には、日常的な風景の中に潜む奇妙なものや禍々しいものが描かれているとよく言われていますが、実際に見えているものは、人によって違うというのもありますよね。

それはすごく思いますね。ポストの赤も、赤という言葉で共有しているだけで、本当は他の人には私が普段青だと思ってる色に見えてるんじゃないかとか。確かめようがないけれど、実はいろいろなことがまったく違うっていうのはあるんじゃないかと思います。

――今後、40代、50代と、どういうふうになっていたいと思いますか?

ひとりの人間としては、虚弱な体質を改善して、書き続けるために体力を向上させたいと考えています。作家としては、丸くならないで、上手く言えないけど、成熟もしないで、いつまでも無茶なことを書いていきたいなと思います。もちろん上手くはなりたいんですけど、それとは別の意味で、“いい話”じゃない感じでいきたいなって。

たまにはみんなに、いい話だねって言われたい気もするけど(笑)、何かをめちゃくちゃに破壊するようなものを書きたいってずっと思っているので、これからも、年をとればとるほど大規模な破壊ができるようになるといいと思います。

――藤野さんの作品を読んでいると、いい意味で、杓子定規に生きなくてもいいんだって思えるところがありますね。人によって見えているものって違うんだな、みんなと同じじゃなくてもいいんだなって。世の中、みんなと同じじゃないといけないっていう空気がありますが、もっと破天荒で自由でいいんだって元気づけられる、というところもあると思います。

ずいぶん前にインタビューで言ったことがあるんですけど、世間っていい人が多くて、残酷なことや、ひどいことを思うだけで、それはいけないことだとか考える人が結構多いみたいなんです。でも、そんなことはないよと。実際にしたらいけないことはいっぱいあるけど、考えるだけやったら、何考えてもいいんやから。自分には醜い面があるからといって自分を否定したり、恐ろしいことを考えてしまうことに嫌悪感を持つことはないって。私が言いたいことがもしあるとすれば、それです。

――すべてのクリエティブなことの根源って妄想ですからね。

そうですよね。ひどいこといっぱい考えたらいいんですよ(笑)。私もひどい小説を書こうと思っているので、これからも、できるだけひどいものを書いていけるよう頑張ります。

1.IMG_9535生まれも育ちも大学も就職もすべて京都で「行動半径がとても狭いんです」と語る藤野さん。が、その頭の中で描かれる世界は異次元におよぶほど広く、読む者を遠くの別空間へといざなってくれます。この日は執筆でお忙しい中、鴨川近辺まで出て来ていただきました。取材・文=freesia編集部 撮影=福森公博
藤野可織 Kaori Fujino

1980年京都府生まれ。同志社大学文学部卒業、同大学院美学および芸術学専攻博士課程前期修了。写真スタジオでのアシスタントを経て、出版社でアルバイトをしながら小説を執筆。2006年『いやしい鳥』で文學界新人賞受賞。2009年『いけにえ』で芥川賞候補。2012年『パトロネ』で野間文芸新人賞候補。2013年『爪と目』で第149回芥川賞受賞。2014年『おはなしして子ちゃん』で第2回フラウ文芸大賞受賞。アートにも造詣が深く、資生堂ギャラリーのshiseido art eggの審査員なども務める。

●藤野可織の特異な感性に触れる3冊

1
『いやしい鳥』

鳥に変身した男と大学の非常勤講師をめぐる惨劇を描いた表題作の突飛な展開にも息を飲むが、母を恐竜に飲み込まれてしまった女性の恐怖心をつづった話や、人を襲う胡蝶蘭の話も秀逸。映画監督のクローネンバーグやコーエン兄弟、あるいは安部公房が描き出すような、作家独特の“異空間のリアル”が、じっとりと滲み出る3つの短編を収録。(2008年・文藝春秋社)

2
『パトロネ』

同じ大学に入学する妹と同居することになった私。が、妹は徹底的に私を無視し、皮膚病を患う私を残し、ある日突然出て行ってしまう。終始奇妙な雰囲気が漂うストーリーは、どれが本当の世界なのかがふとわからなくなる不思議な読後感を残す。美術館で双子の悪魔と遭遇する主婦の奇怪な行動を描き芥川賞候補になった「いけにえ」も収録。(2012年・集英社)

3
『ファイナルガール』

幻想的で不条理な7つの短編集。何度も連続殺人に遭遇しながら生き延びてしまう女性の話など、いずれも現実とフィクションが交差する奇異な世界を描きつつ、ああ、でもこういうことってあるかもしれない、と読み手に思わせるのは理路整然とした文章力がなせる技。結論を完全に読み手に委ねるかのような物語の終わり方も切れ味がよい。(2014年・扶桑社)