自分らしく生きる
2016-02-11

#07 湯山玲子 / 著述家

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ひとつひとつのものに対して自らイエス、ノーを判断する。そうやって生き方が変わっていく。

作家、編集者などの出版関係から、テレビ番組の製作やコメンテーター、広告ディレクション、イベント・プロデュースなども手がけ、幅広いフィールドで活躍する湯山玲子さん。女性の生き方や音楽、ファッション、食、映画、演劇などについて深い洞察力で舌鋒鋭く斬る、その爽快な語り口は多くの女性達から支持を得ています。そんな湯山さんに、人生を軽やかにサバイブするためのヒントを聞いてみました。

──湯山さんのお父様は管弦楽やピアノ曲、合唱、童謡などの作曲で著名な湯山昭先生ですが、どのようなご家庭だったのでしょうか。

クラシック畑の人はたいてい大学などの先生に納まるのですが、父は一度も先生をしたことがなくて著作印税だけで食べることができた人。家が仕事場だったので、いつも家にはピアノの音が聞こえてましたね。私ももちろんピアノは習ったのですが、父は自分とモーツアルト以外の曲が家の中で鳴っていると気に障る、という性癖。私が練習していると「うるさーい」と怒鳴り込んでくるんですよ(笑)。だからスッパリ辞めて、外で遊んだりしてました。本当に才能があったならば、そこで「やらせてくれ」と粘るんでしょうが、さっさと引退(笑)。それよりも本やマンガを読む方が好きでしたね。

小学校5、6年生のときに、ラジオでどんどんロックにハマっていきました。親への反発もあったのかもしれないですね。日本の場合、クラシック音楽は自分の感性で解釈して表現する前に、まずは先生の指導を踏襲しなければいけないんですね。もちろん、訓練は必要なのですが、感情、感性、快感の共有などというものは、ずっと後でいいとされる。日本におけるクラシック音楽って、欧米に追いつけ追い越せの文化ツールという歴史があるだけに、権威主義が強力だし、自分の好みの輪郭を持っている人が少ない。だから今手掛けている『爆クラ!』(クラシックの名曲をクラブ仕様の耳で大音量で聴くイベント)を始めたのも、クラシック音楽の新しい聴き方を提示したいと思って始めたものなんです。

母は児童合唱団の主宰者として、精力的に活動していました。祖母も一緒に暮らしていたのですが、これが元教師の強烈な人で(笑)、祖母、父、母の大人3人が皆、すごいパワーで自分の意見をハッキリ言い過ぎる性格なので、食事風景というと、皆がやいのやいのおしゃべりやケンカしてる思い出しかなくて(笑)。相当、変わった家庭だったと思います。

──その家庭環境が湯山さんに与えた影響は大きそうですね。

幼稚園の頃かなあ。ある日、それまで私を猫っかわいがりしてベタベタだった父の顔に〝子どもはもう飽きた〟という表情が浮かんだのを、なぜだかよく覚えてるんです(笑)。母も同じようなもので、お弁当に手の込んだタコのウィンナーソーセージなんぞは入っていたためしがない(笑)。家族で映画に行くにも、父が観たいお色気満載の007シリーズばっかりですから。こういう中で生きていくには子どもなりのサバイバルテクニックが必要だった。だから冷めた目を持った大人っぽい子供だったと思います。他の家へ行くとウチの空気感とは全然違うので、これは慎重に生きなければダメだろうなって思ってました。

小中高は普通の公立に通っていたんですが、小学校のときはクラスの中心人物でしたよ。遊びを考えて、マンガやファッション等の情報にも強いという。でも、中学生ぐらいになると、「女らしい」女子の方が男の子の目を惹くようになる。思春期はクセのある個性的なものよりも、「一般的な王道」の方が絶対に力があるんですよ。ということで、常に自分にブレーキをかけて、王道に居場所をつくりつつ、すごく白けた感じを気取ったクールな女の子でした。今の30代女子が陥っている“こじらせ”に近い感じです。自虐でも高みでもいいけれど、傷つかない立場のラインを引いて、世界に対して批判的にふるまう、という方法。しかし、そういう意識がありながらも、生来の好奇心から、足の方は動いていた。時代はバブル前夜で、カルチャーシーンも面白いことが起こっていましたからね。

大学は学習院大学の法学部へ入ったのですが、高校時代から続けていたバンド活動を再開し、East West(サザンオールスターズ、シャネルズ、アナーキーなどを輩出した、ヤマハが主宰するバンドの登竜門的コンテスト)にも出場しました。私はドラム担当でしたけど、同じバンドからは、タンゴヨーロッパというガールズバンドとしてメジャーデビューしたメンバーもいたんです。その一方で、体育会のダイビングにも在籍し、大学一年の夏休み2ヶ月ほどはずっと海に潜りっぱなしだった。

──今の湯山さんにはクールというイメージはないのですが、それが変わったのはいつ頃ですか?

仕事を始めてからですね。活字が好きだったので出版社を希望したんですけど、私が就職した時代は男女雇用機会均等法が施行される前で、補助職以外の女性の求人が本当に少なかったんです。それで、今でいう「Yahoo」みたいな情報メディアの先端で、男女平等だった「ぴあ株式会社」に、けっこう高い倍率の中、入社しました。仕事を続けていくと、業界は地方出身者も多くて、やっぱりガツガツ動き回っている人の方にいろんなチャンスが回ってくる。それで、いろんな物事に「めんどくせー」と斜に構えるクールな自分って、実は他人への依頼心の塊で怠惰なだけじゃんって、20代で気づいたんです。それと20代後半で一人暮らしを始めたのも大きかった。実家のものすごい逆パワースポットの引力から離れて、初めて自由になれたというか(笑)。

──入社後の仕事はどういったものだったのでしょうか。

情報誌『ぴあ』の編集部に配属されて、自分では絶対に音楽担当になると思っていたのに、演劇担当になったんです。当時は人事を恨みましたが、現在の仕事に連なる大きな勉強をさせてもらったと思っています。ちょうど小劇場のブームが起きたときで、いろいろな芝居を見ることができたし、歌舞伎や能、狂言、落語も担当していたので、まあ、和モノは強いですよ。

それで入社して2、3年経ったときにバブルが起きるんです。そのころ配属されたのがタイアップ編集部というところで、ここで後にフリー編集者として独立したときに役立った大きなスキルを身につけました。雑誌のターゲットに興味ある広告主が、たとえば、「香港の観光客誘致の本を作ってくれ」という話に対して答えていくという。それで、最初に手がけたのが、香港のグルメマップですよ。もちろん海外の取材なんてしたことないし、留学経験もないんだけど、1ヶ月、外部のライターさんたちと一緒に香港に住みながら取材・編集作業をました。その1ヶ月で、私は英語と海外での仕事のノウハウを身につけたんです。

──あの時代はホントに予算も潤沢で、いろいろなことができましたね。

そうですね。大手酒造会社から「パーティについての本を作って欲しい」という依頼が来て、「それなら雑誌っぽく作ろう」と思って、ファッション撮影から、依頼原稿から、雑誌でやれることを全部やったり。まだ20代だったので、仕事をお願いしている外部のプロの人たちにいろいろ教えてもらいながら。編集長なのに、見習い同然という(笑)。仕事を取ってきちゃって、納品までにプロになる、とこれ、私のフリーランス時代のモットーです。

会社にたたき込まれたのは、予算管理と採算について。仕事の基本だと思うのですが、実はここが適当な編集者やコンテンツメーカーも多いんですよね。やりたいことに自分でカネを付ける、という仕事スタンスは、この時期に育まれたモノだと思います。よく会社を辞めたいって人いるじゃないですか。でも、どんな会社でも辞めるのは、そこでお金のことをちゃんと学んでからのほうがいいと思います。

辞めようかな、と思うと、人事異動がそのたびにあり、辞め損ねて結局10年以上も会社員をやりましたね。広告部に行って、辞めようと思ったら、その時に立ち上がったカード会員サービス部セクションに回されたので、クレジットカードや会報ビジネスにも詳しくなりました。

──それらがすべて今のプロデュース業などの仕事にも生きているということなんですね。独立するきっかけはどういうものだったのでしょうか。

『NHKスペシャル』が初めてファッションを軸にした番組を作り、その番組コンテンツを軸としたタイアップで、『ぴあ』は書籍、ファンハウスはビデオと3社で組むプロジェクトがあって、社内コンペがあって、勝ち取ったんですよ。予算も潤沢、制作室もNHKの中に作ってもらって、二班の編集チームをつくって仕上げました。

その仕事が終わったあとに会社に戻ってきたら、何やっても面白くない。時代もバブルが終わって、会社も緊縮財政になって。そんなときに仲のいい『SWITCH』の編集者が「編集会議があるから来てみない?」って誘ってくれて、見学のつもりで行ったんです。そうしたら「今度、古今亭志ん朝の特集やるんだけど、湯山さん詳しいよね」と振られて、いろんな意見を言ったら、みんながノッてくれて。

もちろんそれまでタイアップのページや書籍は作っていたんだけど、それはクライアントがあってのもので、自分で内容そのものを作って売っていくのとは違う。どうやら私は企画やアイディア、テキストというソフトそのものをつくることを仕事にしたいんだ、とやっと目が覚めた。それで独立することにしたんです。

で、出版社を辞めた編集者ってプロダクションを作って、それまでいた会社の仕事をもらうというケースが多いんだけど、それでは辞めたことにならない。超カッコ悪いことだと思ったので、一切『ぴあ』の仕事はしない、フリーの編集とライターでやっていくことにしました。

ちょうど『SWITCH』も版元から独立する時期たったので、『ぴあ』での経験を生かして 「タイアップ方式って知ってますか?」と編集部に持ちかけたりして、自ら制作費も集めていろいろ作りましたね。90年代って写真がブームだったので、それを利用して、海外取材もたくさんしました。
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──ひとりで高級寿司屋に入って、さまざまな観点から評価する『女ひとり寿司』を2004年に出してから、書き手としても注目されるようになりましたね。

独立した後に、最終的にあとまわしにしたのが、書くことだったんですよね。『女ひとり寿司』は最初、雑誌『リトルモア』の女子編集者に「何かコラムを書いてください」と頼まれて始まったんです。仕事ですごくイヤなことがあった日に飲んで帰ろうと思って、知り合いに声をかけたんだけど誰もつきあってくれないときがあって、前から気になっていた隠れ家的な寿司屋にひとりで入ってみたんです。歓迎されるかと思ったら、まずすごい態度の悪い外人がいて、それでヘンな女が1人で入って来たもんだから、店内の雰囲気がトンデもなかった(笑)。それを担当編集者との打ち合わせで、「超ヤバかった、女ひとり寿司」って話したら、“それは面白すぎる”ってことになって。

――当時はちょうど、女性のおひとりさまがブームになりつつありましたね。

最初は女性ひとりでヘンなところに入ってみる、というコンセプトで『女ひとり寿司』というタイトルだったんですが、『リトルモア』が廃刊になって、ちょうどその頃に創刊した『VOGUE JAPAN』に引き継がれるときに、「実際に寿司屋に行って、ひとり寿司するのが面白い」ってことでこういう内容になったんです。当時から「おひとりさま」って言葉はあったんだけど、高級寿司屋にひとりでっていうのはまだまだの時代だったんですよ。今はもうカップルじゃなくて、女性はひとりでご飯食べるのも人目が気にならなくなってきて、この傾向は続いてますね。

――著書の『四十路越え!』では、女性の自立がひとつのテーマになっています。

実は女性の生き方については、30代でも話はもらっていたんです。でも、その時は迷いが多くて結局、書けなかった。自分自身、40歳を超えてから、いろんなことが本当にうまく回るようになっていき、やっとこさ自分という個性を確立したように思うので、「30代はいいことがひとつもない。しかし、ちゃんとやってれば自然と付いた実力が花開くことになるよ」という確信があったので、このあたりを是非伝えたいと思いました。

日本人って、みんなといっしょが一番いい、ということで、自分の生き方を自分で決めることが不得手だし、ことによるとバチがあたる、ぐらいに思っているフシがある。会社や親や地域に従っておいた方が身のため、という生き方なので、人生がすべて受け身になって、筋力不足のおこちゃまになってしまう。自立というと拒絶反応が起きるかもしれないけれど、「自分の生き方を自分が決める」という基本的なこと。そのためには生きるための下支えである財力がないとならないし、確かに辛いし面倒なことではあるんですが、大人なんだから、それを言ってもしょうがない。

――かなり大人になってからでも自立心は養えるんでしょうか?

私の本では、すべての決定権を自分で持つような感覚を快感に思う思考回路の組み替えを早いうちからやるといい、ということをいつも言っていますが、それは30代や40代になってもできると思いますよ。例えば指輪を買いたいんだけど、どれを選ぶかというときに、「誰それがこんなのを持ってたから買う」というのでなく、「気持がぐっと動いて、欲しいと思った」と意識することが重要なんです。断捨離ブームもそういうことだと思います。ひとつひとつのものに対して、自らイエス、ノーを判断することでしょ。そうやって生き方が変わっていく。その回路を意識して作ることが自立につながると思います。自分の判断にこだわって孤立するほど頑固になれ、といっているわけではなく、妥協ももちろんオッケー。しかし、それを自覚していくことが重要なんです。

──最近ではテレビの仕事も増えて、コメンテイターとしても活躍されていますね。

男性が考える女性向けマーケットってあるじゃないですか。「スイーツやっとけ」みたいな。でも、本当のところはどうなのか? 主婦向けには分かりやすく、難しいものを排除する、という不文律がありますが、小難しいお芝居やアートの現場には主婦がいっぱいいます。女性のオタクも多いし、実際、読者の意見を取り入れる女性誌の内容はなかなかのものがあります。要するに、視聴者の方が多様化しているし、進んでいる。女性は今、性意識の面でも、家庭観でも、社会の立場でも大きな変化を遂げているのに、そこに刺さる企画が少ないと思います。女性の目線でつくりました系の番組が量産されていますが、その「あるある」が古いというか。

そんな中で、知り合いのプロデューサーとの飲み屋の会話から生まれたのが、『メンズ温泉』(BSジャパンで2015年7月〜9月放映)です。5人のイケメンが温泉を巡るという内容で、女性のための初のグラビア番組としてヒットし、正月2日には全編の連続放送もされました。コンセプトも演出アイディアにも、大きくかかわらせていただきました。

出版、広告の世界はよく知っていますが、急に目の前にあらわれたテレビの世界は、ちょっと別格ですね。視聴者の数も含め、エネルギーが集まるところのものづくり、というものが非常に面白い。とんでもない才能を近くで見るのも興味深いです。明石家さんまさんとかは、本当にすごくて、出演者としていながら、心は完全に芸を堪能する観客と化していましたよ。ジャズの高速セッションに近いです。 「テレビはこんな天才を生むんだ」って感心したり。それと現場がすごく熱い。出版ではなくなりつつあるチーム感覚、その空気が残っているというのが面白いなって思います。

──主催なさっているクラシック音楽のトーク&リスニングイベント『爆クラ!』は、3月21日に東急文化村オーチャードホールで、なんと、テクノ/クラブミュージックのDJジェフ・ミルズと東京フィルハーモニー交響楽団との公演という、新たなステージを迎えていますよね。

私は39歳の時、ハウスミュージック関係の本を作るのに訪れたニューヨークでクラブカルチャーに開眼したのですが、その時にダンスフロアで思った「この音楽はクラシック、交響曲の感じに似ている」という直感をイベント化したのが、『爆クラ!』なのです。それが、本当にトップアーティスト側で実現していて、今回、それを整える手はずが揃ったので、「やっちゃえ」と。

性格的には飽きやすいのですが、一度手を付けると手放さずに追求していくということは、40過ぎに自覚できた自分の仕事の特徴ですね。もちろん今回も、主催側と予算やPR、スポンサー、内容すべてを把握して、手堅く進めています。おかげさまで、発売と同時にほぼ完売なので、嬉しい限りです。(文=藤野ともね 写真=松井康一郎)

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年末年始に訪れていた上海で購入したという真っ赤なコートを着て颯爽と現れた湯山さん。数々の女性誌などでユニークかつ力強い女性の生き方を提示。「スッキリ!」(日本テレビ)「新・情報7daysニュースキャスター」(TBS)などテレビのコメンテーターとしても活躍中です。
湯山玲子 Reiko Yuyama

1960年東京都出身。父親は作曲家の湯山昭。学習院大学法学部卒業後、『ぴあ』に入社。90年代初頭にフリーの編集者となり、雑誌や単行本の編集、広告のディレクションやプロデュースなど多分野で活躍。歯に衣きせぬ筆致でつづる軽快な文章にはファンも多く、全世代の女性誌やネットマガジンにコラムを連載、寄稿。著作も多数。すべての頑張る女性たちを癒す温泉番組『メンズ温泉』のブレーンなどもつとめる。 クラシック音楽を爆音で聴くイベント『爆クラ!』や自らが寿司を握るユニット『美人寿司』なども主宰。3月21日には『爆クラ!』ブレゼンツで、『ジェフ・ミルズ × 東京フィルハーモニー交響楽団 クラシック体感系 ~時間、音響、そして、宇宙を踊れ!~』をブロデュース。当日のナビゲーターも務める。日大芸術学部文芸学科非常勤講師。

●人生をサバイブするために読む湯山玲子の三冊

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『女ひとり寿司』

銀座のすきやばし次郎、九兵衛など名だたる寿司屋にひとりで入るのは男性でも躊躇する。それをえいやっと湯山さんは入ってしまう。そして大将の人柄や味はもちろん、客層も持ち前の観察力で論考する。寿司屋という聖域についての考察が何とも面白い。女ひとりで入りづらい寿司屋を難易度別に評価したミシュラン表つき。(幻冬舎文庫)

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『四十路超え!』

女性にとって40代は人生の仕切り直しをする時期であり、仕事、ファッション、美容、セックスなど悩み多き年頃だ。湯山さんは自身で体験したさまざまな出来事と実践した解決法をふまえて、現実を自分らしく生きるためには〝規格外の女になろう〟とサジェスションする。巷で話題の美魔女路線とは一線を画す、生き方指南書。(角川文庫)

bunkakeijoshi
『文化系女子という生き方 「ポスト恋愛時代宣言」』

ファッション、アート、音楽、マンガ、文学などにハマる文化系の腐女子が増えてきた。彼女たちは文化教養をファンジーとして受け入れ、夢の世界を生きるのをよしとする。文化系と肉食系のハイブリッドである湯山さんは、そんな彼女たちに向かってリアルも楽しまなきゃソンするよ、と諭す。現代日本の問題点を突く1冊。(大和書房)