先月、このウェブマガジンfreesiaに登場された、漫画家のひうらさとるさんのインタヴューを読み、やはり才能に恵まれた人というのは若くして人生の方向を見極めたりするものなんだなあと感心しました。いわゆる、ブレてない、っていうんでしょうか。
小学生の頃に私は、そのひうらさんもお好きだったという手塚治虫さんの「ブラック・ジャック」に強く影響され、大きくなったら外科医になろうという夢を持ったことがあります。それはたぶん、自分の将来を見据えつつ、初めて何かを具体的に頭に描いた、私の人生の記念すべき一瞬だったとは思いますが、同時期に愛読していた「学研の科学」の付録たち、プランクトン飼育セット、大豆発芽セット、太陽熱利用湯沸かし器セット等々、その手の実験キットの類はことごとくこなしきれない現実というものもあり(つまり不器用)、もしかして、ぜんぜん違うんじゃない?と、ブラック・ジャック(理数系)への道は、誰に告白することもなく、案外あっさり断念してしまったのでした。大人になった今、アジの三枚下ろしも怪しい手さばきの私ですから、己を見定める能力だけは小さい時分からあったんだよなと、その点は誉めてやらないでもありませんけれど。
今日は、これまた“ブレてない”人生をパリで謳歌する若い友人、あきちゃんこと大津明子さんをご紹介したいと思います。福岡出身の彼女がフランスで、アートディレクターという現職に就くに至った原点は、子供の頃、いや、まだ胎児であった時、はたまたお母様の少女時代?にまで遡ってあるのかもしれないといえば、どれだけブレていない人生であるか、ご想像がつくのではないかなと思います。
Photo Idem Paris
福岡市内にある地域密着型アート・ギャラリー「モンコレクション」は、あきちゃんのお母様のご経営ですが、こちらでは、19世紀から20世紀にかけて活躍した世界に名だたるアーティスト達に愛された「ムルロー工房」という由緒正しい版画工房で制作された作品を、あきちゃんが物心つく前から扱っていらっしゃったのだそうです。結婚前から今日に至るまでのお母様が、自分の愛する美しいものだけを寄せ集めて築いた小宇宙を遊び場にして、あきちゃんは育ちました。日々の遊び相手は、ピカソ、マチス、ミロ達。純粋な心を持つ少女には、彼らの描く時空に分け入り、そしてそこに生きる人々やもの達と楽しいおしゃべりを交わすことが、きっと苦もなくできたに違いありません。
高校時代、自分の進路にほんの少し迷いを持ったあきちゃんを「東京の美大に通って本格的にアートの勉強をしたらどう?お母さんは生まれた土地から離れることはないままに、自分の画廊を経営するということで憧れの世界に一歩近づくことができたけど、明子にはもっともっとその先に進んでもらいたいわ」と、勇気づけたのはお母様。この後押しを受け、東京にある多摩美術大学「情報デザイン学科」を受験し、めでたく合格。
この学科では、手触り感あるアカデミックなファインアートやデザインが、目に見えないデジタル情報の行きかう現代社会(そしてその状況が加速しているであろう未来)の中でどのように変容しながらその存在意義を発揮し、コミュニケーションや文化の発展に貢献でき得るか、そのような先端的なことを学んだのだそうですが、大学在学中に、ここでまた迷いが出そうになったあきちゃんに、「海外に出て視野を広げてこい!」とはっぱをかけたのは、同大学教授兼写真家の港千尋氏と名誉教授伊藤俊治氏。あきちゃんが“恩師”と呼んで敬愛する方々です。その恩師達の勧めからパリ第8大学大学院芸術学部への入学を決意し、9年前にフランスに渡ってきました。
そのあきちゃんが、 12月5 日、東京駅でみなさんを待っています。 東京ステーションギャラリーで開催される『君が叫んだその場所こそがほんとの世界の真ん中なのだ。(パリ・リトグラフ工房 idemからー現代アーティスト20人の叫びと囁き)』展に、デヴィッド・リンチ、森山大道、JR等が制作した素晴らしい作品をひっさげ、「Idem(イデム)」の顔として颯爽と登場するのです。
「Idem(イデム)」とは、1997年に「ムルロー工房」が名前を「Idem Paris」と変え、現オーナーによって受け継がれつつ、約130年ものあいだ絶えることなく活動を続けてきた、モンパルナスにある版画工房です。隣には「Item」というギャラリーも併設しています。 つまり、若かりし頃のお母様が福岡で抱いていた夢を引き継いだ娘が、ムルローの栄光を引き継いだパリの工房で、自分のキャリアを開花させたということになりますね。
Photo Idem Paris
さて、実はこの展覧会は、11月27日に発売される、作家・原田マハさんの新作『ロマンシエ』とリンクしています。主要な舞台は「idem」、そして私の経営する「アンバサード・ド・ブルゴーニュ」、更にはなんと、あきちゃんの旦那さん、渥美創太さんがシェフを務めるレストラン「CLOWN BAR」等々、パリに実在する施設やお店がたくさん出てきます。
左:「アンバサード・ド・ブルゴーニュ」 右:「CLOWN BAR」
小説では日本の美術大学に通う主人公・美智之輔がパリに渡る所からお話は始まり、様々な人との出会い、事件との遭遇などを経ながら成長して行く姿が、コメディタッチで描かれています。子供の頃から美智之輔には、“自分は他の人とどこか違う”という複雑な思いがあり、そのせいで社会の中に心地よい居場所を見つけることがなかなかできずにいました。が、謎のロマンシエ(小説家)ミハルという、“導師”との心の交流をきっかけに、ありのままの自分を受け入れ、人生の窓は外に向かって大きく開かれ、そしてその開いた窓から大きな声で叫ぶことになるのです。「ここが…!」
物語のラストでは、東京ステーションギャラリーに登場人物一同が集結します。皆さんもぜひ、その場にご参加ください。展覧会にいらっしゃる方々が、アーティスト達のささやきや叫びを耳にしてくださることによって、この小説は本当の大団円を迎えることになるのですから。
『君が叫んだその場所こそがほんとの世界の真ん中なのだ』
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201512_idem.html
Idem
http://www.idemparis.com/
Idem工房見学に関するお知らせ
http://idemparis.com/jp/index.php/studio-tours/
CLOWN BAR
http://www.clown-bar-paris.fr/
◎今月のワイン紹介
Cremant de Bourgogne(クレマン・ド・ブルゴーニュ)
シャンパンは、シャンパーニュ地方産のブドウから作られたスパークリングワインにのみ与えられる名称で、他の地方で作られる発泡酒は、クレマン・ド・ボルドー(ボルドー地方)、クレマン・ド・ブルゴーニュ(ブルゴーニュ地方)、クレマン・ダルザス(アルザス地方)などと称されます。クレマン・ド・ブルゴーニュは、シャンパン同様の作り方をされ、高品質のものが少なくない一方、価格は比較的控えめです。シャルドネやピノ・ノワールに加えアリゴテが少量加えられることもあり、その点はシャンパンと異なります。クリスマスやお正月などのお食事の食前酒として、また、銘柄によっては食中酒として、これからの季節、幅広くお楽しみいただくことができます。