Paris:パリ
2016-05-30
音楽が目に浮かぶ、そんな不思議な感覚でフレンチを愉しむ

「共感覚」という言葉があります。文字のそれぞれに色彩が備わっているように見えるとか、音を聴くと形が目に浮かぶとか、ある感覚器官(たとえば目)が刺激を受けると、そこに他の器官(たとえば耳)の働きも連動して、対象を認知してしまうことを言います。

Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青、母音たち、
おまへたちの穏密な誕生をいつの日か私は語らう。
(中原中也訳)
19世紀フランスの詩人、アルチュール・ランボーの『母音』という作品は、このような一節から始まり、そしてこの一節にして彼は「共感覚保持者」であったのかもしれない著名人のひとりとして挙げられるようになりました。

ピアノの鍵盤を叩く誰かから「ド、は四角形。レ、は二等辺三角形。そしてミ、は楕円形。そんな形が見えてきませんか?」と、同意を求められたとしても、はぁあ?と私にはピンと来ないに違いありません。が、彼女の主観的な世界では、それはそれはとても生々しい現象なのだそうです。

1 piano NINA-A協力:Niina Richter

さて、今日の主役はパリ16区、喧騒から逃れた高級住宅街の一角に、小ぶりな店名パネルのみを掲げる静々とした佇まいの『étude エチュード』。山岸啓介さんと愛子さんのご夫婦で経営されるフレンチ・レストランです。

お店の名前は、シェフである啓介さんがフレデリック-ショパンの大ファンだということに由来しているのだそうで、フランス語で<étude>とは練習曲を意味します。また、この語は<勉強>と訳すこともできますから、「お店を運営していく上では毎日が勉強の連続」という、おふたりの謙虚かつ向上心溢れる姿勢がよく反映されているようにも思えます。

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ということで、数種あるコース料理には、それぞれ「Ballade バラード」、「Prélude プレリュード」、「Nocturne ノクターン」などというタイトルが。いずれも楽曲のように、最後の深い余韻にいたるまでをクレッシェンドで、あたかもコンサート・ホールで上質な演奏に身を任せるかのようなひと時を過ごしていただけたら、という想いが込められているのだと伺いました。

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着席されたお客様はまず、フロア・マネージャー兼ソムリエの愛子さんから、「Notre chef va préparer une composition à base de produits de saison 」というご挨拶を受けられるのだそうですが、こちらを訳してみると、「本日は、新鮮な旬の素材を使い、料理長が丹精込めて作曲した音楽をお楽しみいただきます」とでもなるでしょうか。初めてそう耳にしてびっくりされるゲストは少なくないらしく、まさにその、ちょっとした緊張感のようなものがはっとよぎる一瞬から、もてなす側ともてなわされる側との協演がはじまるのかもしれません。

「閑静な住宅街にある、ショパンをイメージしたフレンチ料理店」だなんて、敷居が高くてなんだか居心地悪そうじゃないかしら?そんな心配はご無用です。きびきびと快活に動き朗らかな笑顔を絶やさない愛子さんの、暖かい心配りでフロアはいっぱいに溢れていますから。

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ところで、私達が何かを口にした時、それがおいしいかおしくないかの判断は、かなり直感的に下されるものですよね。そういう直感を私達に抱かせるのは、食べたものの性質、体調やお腹の空き具合、過去の食体験などでしょうけれど、まずはとにかく快不快、好き嫌いの漠然とした印象が浮かびます。

この<閉じられた口の中で味わう>という、あまりにも個人的な味覚体験を他人に対して表現するに、甘い、しょっぱい、酸っぱい、にがい、辛いなどのシンプルな形容だけでは甚だ力不足であるので、私達は視覚、聴覚、臭覚、触覚、温度覚、内臓感覚など、からだ全体の感覚を総動員させた上、比喩表現やオノマトペ(擬音語、擬態語)を駆使してみるのです。<丸みがあって、ほっこりと優しい味、胃に負担をかけない品の良さ、塩加減に切れがある、とげとげしい酸味をなだめる、しゃきしゃきと耳に軽快な、朝採り野菜の新鮮な歯ざわり・・・>こんな風にして。

つまり、ランボーのような天才詩人ではなく、また、「共感覚」を持たない者であっても、おいしいものを食べ、そしてその喜びを誰かと深く分かち合いたいと願う時には自然と、これに似た能力を発揮させているということなのかもしれません。

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好意を持つ者同士が集って卓を囲む際の会話のやりとりでは特に、互いの発言に対する肯定的なモデリング(肉付け。立体感・量感表現)作業が繰り返され、テーブルの上では豊かに膨らんだコトバの風船たちが、ふわふわと心地よく漂うようです。

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『étude エチュード』にBGMはありません。ここは山岸夫妻の演奏する料理を目と舌で聴くところなので、耳に流れてくる音楽は必要ないのです。

「言葉を失う(言葉では表現しきれない)ほどの美味」という、最上級の賛辞と共にあっさり降参してしまうその前に、とりあえず一度、ご自分の言葉で「おいしい音楽」を彫刻されてみてはいかがでしょうか?

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●Restaurant étude(レストラン エチュード)
14, rue du Bouquet de Longchamp 75116 Paris
Tel.+33 1 45 05 11 41