Paris:パリ
2015-07-22
ワイングラスに太古の海が蘇る

ずり下がる分厚い眼鏡を神経質に持ち上げて落ち着かない風情のフランス人男性。その横に腰掛けながら英語で口論する美しい日本人女性。接客業にたずさわる者、お客様同士の会話などこれっぽちも盗み聞きしないのが大信条、とはいえ、若い男女間で激しく交わされるやりとりが光合成だとか葉緑体だとか、はたまた海洋の酸性化だとか、そんな言葉の応酬であるとすれば、沸きあがる好奇心はもうどうにも抑えようがないというのが人の心情というもの。

杯を重ねすぎたかそれとも怒り心頭に達したか、頬を真っ赤に染めた男性だしぬけに立ち上がったかと思うと大股に店内を横切って、ご退場。ここでひと息間をあけて、いざ、「お連れの方どうかされましたか?ご気分でもお悪いのでしょうか?」

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この女性、陽子さんは日本の某国立大学に勤務する海洋性藻類の研究者ですが、数年前までは哲学者サルトルや細菌学の父パストゥール、そして世界的ベストセラーとなった「21世紀の資本」の著者である経済学者ピケティなどを輩出した「エコール・ノルマル・シュペリウール」という仏国立高等師範学校の博士研究員としてパリに滞在していました。

文教地区として名高いカルチェ・ラタンに位置する彼女の研究室から私の店まではリュクサンブール公園の片隅をゆるゆる歩いて約15分。一日中顕微鏡を覗き込んで疲れた目は公園の緑で癒し、推論に行き詰った脳みそは少し緩めてリセットさせましょうということで、大好物のブルゴーニュワインを味わいに、時々通ってくださったのです。

「はっはっはーっ。いいんですよ、しばらく放っておけば。そのうちケロリとした顔で戻ってきますから。実は彼は共同研究者のひとりなんですが、今行っている実験に関して意見がまっぷたつに分かれていたところ私のほうが言い負かしてしまったもので、ちょっとへそ曲げちゃっただけなんです」

パリ時代の陽子さんの活動のひとつに「Tara Oceans(タラ号海洋プロジェクト)」 への参加がありました。それまであまり関心を持たれていなかった海洋のプランクトンやバクテリア、ウィルスなどを世界中の海から採集し、地球規模で解析しようという試みのもと、ユネスコ、NASA、モナコ公国アルベール2世財団等の協賛を得たファッションブランド、アニエスベーの最高経営責任者が2003年に「Tara Expéditions」と命名し構想を打ち立てたものの一環にある研究です。

地球上で作られる酸素の約半分が海洋の植物プランクトンによるものであると言われ、地球環境におけるその重要性が注目される中、四方を海に囲まれた日本でこのプロジェクトがほとんど認知されていないのはとても不思議な気がします。 が、実は近いうちにタラ号が主にサンゴ礁の研究と保護を目指して、日本周辺の海洋調査の旅に出るという計画があり、映画監督の北野武氏も関与しているということですから、今後の日本での発展には期待ができるかもしれません。

この海洋観測船タラ号のユニークな点は、科学者とアーティストが船に同乗して長い航海の経験を共有する所にありますが、まさにアニエスベーならではの企画力ですね。また、「Tara Oceans」で海洋生物採取を行ったクリスティアン・サルデ氏の写真集には、重力から解放され海中に浮遊するプランクトン達の見せる幾何学的な形態の美しさが表現されており、これには芸術家のみならず工学の分野に携わる研究者達も着目しているそうです。

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ハプト藻の一種。白い石灰質の殻をもつ。写真はモノクロの走査型電子顕微鏡写真をデジタル加工して着色したもの。撮影:Dr. Jeremy Young (University College London) 引用元:「美しいプランクトンの世界」クリスティアン・サルデ著(河出書房新社)

ふっくらした頬の片方にだけ深いエクボの浮かぶ印象的な表情で、陽子さんはこんな風に語ります。

「石灰層と泥炭土が交互に現れるブルゴーニュの土壌はジュラ紀前後の海洋由来と言われていて、だから牡蠣などの海洋生物の化石がゴロゴロ出てくるんですね。そして実は石灰層の方は主にハプト藻(円石藻)という植物プランクトンで成り立っているのですが、ドーバー海峡の白い崖(エトルタ)なんかもそうなんですよ。ジュラ紀から白亜紀にかけてはこの円石藻が大繁殖したんです。数十マイクロという微細な植物プランクトンが海底に堆積して地層を作っているわけで、なんとも壮大な話しだと思いませんか?太古の海で繁茂した植物プランクトンが積み重なり、地層となり、そこから滲み出る水で育つ葡萄でできたワインにはミネラルが豊富で、その香りを嗅ぐと人類のまだ存在しない遥か昔の地球にたゆたう大海原の姿が目に浮かんでくる。過去と現代とがグラスの中で一体化しているような、そんなことを夢想させてくれるワインが大好きなんです。ふふふ、科学者って意外とロマンチックでしょ?」

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ドーバー海峡のエトルタ Photo by Shinobu Nomura

「あれ、どうしたの?なんでそんなに盛り上がってるの?なにかおもしろい事件でもあったの?」すっかりご機嫌を直して満面に晴れやかな笑顔を浮かべた同僚のご帰還。晴れやかな笑顔になっても、ずり下がる眼鏡を執拗に持ち上げるしぐさは変わらずそのままでしたが。

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陽子さんの大好きなブルゴーニュの白ワイン 前列左より ●Chablis 1er Cru Vaillons Raveneau 2008(シャブリ・プルミエ・クリュ・ヴァイヨン フランソワ・ラヴノー2008年)●Bâtard-Montrachet Domaine Leflaive 2010(バタール・モンラッシェ ドメーヌ・ルフレーヴ2010年)●Meursault 1er Cru Perrières Comtes Lafon 2010(ムルソー・プルミエ・クリュ ペリエール コントラフォン2010年) 後列左より●Meursault 1er Cru Perrières Pierre Matrot 2011(ムルソー・プルミエ・クリュ ペリエール ピエール・マトロ2011年)●Corton-Charlemagne Tollot-Beaut 2012(コルトン・シャルルマーニュ トロ・ボー2012年)●Morey-Saint-Denis Rue de Vergy Bruno Clair 2011(モレ・サン・ドニ  リュ・ド・ヴェルジィ ブリュノ・クレール2011年)●Chablis 1er Cru Vaillons Louis Michel 2011(シャブリ・プルミエ・クリュ ヴァイヨン・ルイ・ミシェル2011年 )

TaraOceans HP
http://oceans.taraexpeditions.org/en/